不登校になる前から、わたしはわりと散々な人生を送っていた。
両親をはじめ、学校の先生や塾の先生、親族や病院の先生など、子ども時代に関わりがあった大人はほぼ全員がクソ人間だった。
辛いときに助けを求めれば
「甘えるな」
「こっちだってしんどい」
「それは自分の問題なんだから自分で解決してよ」
と突き放され、
ほんの少し感情を表に出したら
「世界はあなたを中心に回ってるんじゃないんだから」
「なんでもっと他人のことを考えられないのか」
「あなたは間違っている」
と怒られた。
今から考えると本当に、信じられないくらいみんな揃ってわたしの考えや思いを否定し、批判し、貶していた。
それゆえわたしは自己肯定感をガリガリに削られ、毎日のように自己否定に苛まれる悲惨な子ども時代を過ごしていた。
散々な大人に囲まれながら育ったわたしは、「自分の感情を押し殺し、他人のことだけを考えて他人のために生きることが人生最大の美徳」なのだと学んだ。と同時に、それが自分の心を守り、余計な傷を負わずに済む唯一の方法なのだと悟った。
そしてわたしは、正しい感情表現の仕方や人との関わり方がわからないまま、必要以上に自分を押し殺し、常に他者からの視線に怯えながら生きる大人へと成長してしまった。
そういった生き方が原因のひとつとなって、2年前に子宮内膜症を患った。さらに昨年の春には膨大なストレスが重なって腫瘍が急激に大きくなり、緊急手術をする羽目になった。
手術を機に、わたしは新しい自分になろうと決意した。
「もう二度とこんな苦しい思いはしたくない」と心理学や自己啓発に関する大量の本を読み漁り、人生をもっとラクに、楽しく生きる方法を探った。
そして、積極的に人とコミュニケーションを図り、勇気を出して自分の感情を表に出してみたり、それらに素直になって行動してみたりしながら意識的に生き方を変え、試行錯誤を重ねた。
そんなある日、とある人にこう言われた。
「自分のことよりまず他人でしょ?もっと相手のことを考えて行動したら?」
この人の言葉は、今まで散々他人の目を気にし、他人を優先し、自分を押し殺しながら生きてきたわたしにはとても重い言葉だった*1。
しかもその生き方を「変えよう」と努力していた真っ最中だったので、本当に、わたしの乏しい語彙力では表現できないくらいにしんどくて、辛くて、悲しい言葉だった。
そしてわたしは、「大事な人やその周りにいる人たちにいやな思いをさせ、迷惑をかけ、傷つけてしまった」というショックから毎日のように自分を責めた。あまりにあの言葉がショックすぎて、あまりに自分が最低な人間すぎて、、、その後1ヶ月くらいは人と会ってるとき以外はずっと泣いていた。
「やっぱりわたしが何もかも我慢すべきなんだ。わたしが感情を表に出したら周りの人はみんな不幸になって、いやな気持ちになるんだ。やっぱりわたしは、他人の気持ちを考えられない最低最悪の人間なんだ、、、」
そう思った。手術を機に新たな自分を構築するはずが、ふりだしに戻ってしまったのだった。
「わたしはこれから、どうやって生きていけばいいのだろう?」と思った。
今まで通り何もかも抑圧して、他人のことだけを考えて生きればいいのだろうか?
結局それが、他人に迷惑をかけずに済む&自分の心を傷つけずに済む唯一の方法なのだろうか?
しかしふと周りを見渡すと、みんな自分の感情を表に出しながら、そしてそれを他人と共有しながら楽しそうに生きていた。それがわたしにとってはとても悲しくて悔しかった。
なぜわたしは、他者に感情を吐き出すことや他者と感情を共有することを許されないまま生き続けなければいけないのか。
なぜわたしだけが。
なぜわたしだけが、こうして何度もつらく悲しく苦しい思いをしなければならないのか、、、
そういうことをぐるぐると考え続けた結果、「気づいたらうつおよび諸々の精神疾患を発症し、どうしようもなくなりました~(てへぺろ)」というのが、今回のざっくりとした、本当にざ〜っくりとした経緯である。
まぁだから、ぶっちゃけ、相手が悪かった部分もあると思う。(笑)
あの言葉を言ってきた人がもう少し懐の深い人で、かつ人の気持ちに寄り添える優しい心の持ち主だったならば、そしてもう少し大人の対応ができる人だったならば、わたしはこんなにも心を病まずに済んだだろうし、ここまで引きずることもなかったと思う。
でも、もし仮にそうだったとしても、わたしが子ども時代の様々な不幸経験を乗り越え、上手な生き方を身につけることができていたならば、、、どんなに最低な人からどんなに最悪な仕打ちを受けても病まないでいれたのだろうなぁ、というのも、同時にすごく思う。
この記事にも書いたけど、あくまでもこれはわたし自身の問題で、「既にもつれかかっていた(あるいはすでにもつれていた)糸が、今回の一件でもつれにもつれてどうしようもなくなった」というだけのことに過ぎない。そう考えると案外、自分の子ども時代のこととか、関わりを持った相手の人間性のこととか、そういうことは実はあまり関係ないのかもしれないなあ、とも思う。
そうは言っても、やっぱり自分の子ども時代の不遇さを悔やみたくなることもあるし、あのときわたしの周りにいた大人全員を殴り倒したくなることもあるし、わたしの心をこれほどまでにボロボロにした相手の人の冷淡さや幼稚さに、腹わたが煮えくり返るくらい腹が立つこともある。
でも、そうやって過去を悔やんだり、周囲の人を恨んだりしたところでうつが治るわけではない。それで一時的に心がラクになることはあるかもしれないけど、根本的解決にはならない。
過去と他人は変えられない。
しかし、未来と自分はいくらでも変えられる。
今のわたしがすべきことは、少しずつでも過去を乗り越えて、もつれた糸をひとつずつ、丁寧に、着実にほどいていきながら前に進むことなのだろうと思う。
そうやって自分の可能性と未来を信じながら生きていくことが、ゆくゆくは、新たな自分の構築へと繋がっていくのではないだろうか。
*1:たぶん、これを言ってきた相手がわたしにとってどうでもいい人だったら「はあ?なんや偉そうに」で終わってたと思うけど、信頼して大事に思っていた人から言われてしまったがゆえに、その傷の深さは計り知れなかった。