はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
「記憶に残っている日を思い浮かべてください」と言われたとき、真っ先に良い思い出・良い記憶を思い浮かべることができる人は、この世界にどのくらいいるのだろうか。
わたしは、悲しくて辛い思いをした日のことしか思い出せない。
わたしが学校に行きたくなくて泣いている姿を見て「なに泣いてるの?」と母が冷たく言ってきたあの日。
学校に行けず過呼吸になるわたしに無理やり制服を着させようとし、「なんでいつもそうやって過呼吸になるねん!」と父が怒鳴ったあの日。
学校の定期試験で良い点数を取り、きゃっきゃしながら塾の先生に報告したら「それがどうしたの?」と冷めた目で言われたあの日。
「(学校に行けないなんて)そんなことは甘えでしかないんだよ!!!!!」と病院の先生にひたすらに説教をされたあの日。
楽しかった日。感動した日。うれしかった日。そんな幸せな日や記憶が全くないわけではない。でも、いつも頭に浮かぶのは、どれもこれも悲しくてつらい、、、“灰色の日”ばかりだ。
「なんて不幸な人生なんだろう」と、常にそう思いながら生きてきた。
わたしだって、幸せで、楽しい思いをした日を思い出したい。
思い出すだけでにっこりと笑顔に、幸せな気持ちになれるような、そんな記憶がたくさん浮かんでくる人生を歩みたい。
それができないのは、わたしの人生そのものが誰よりも不幸であるからで、それはある意味仕方のないことだと思っていた。
つまりそれは、わたしの今世における宿命みたいなものであり、どれだけ嘆いても仕方がないことなのではないか、と。
でもそれはちがうんじゃないか?と最近すごく思うようになった。
本当は、わたしの人生そのものが不幸なのではなくて、わたしの考え方、物事の捉え方が自分の人生をより不幸にしているのではないか、と。
たとえば、コップに水が半分入っているとする。
このとき、「あら、まだ半分もあるわ」と思うタイプの人と、「やだ、もう半分しかないじゃないの」と思うタイプの人がいると思う。
おそらく前者のタイプの人は、たとえどんな不幸経験をしていても、わりとすんなり楽しかった日のことを、、、虹色の日を思い出せる人だと思う。
しかしわたしは後者のタイプなので、どれだけ楽しいことを経験しても灰色の日しか思い出せない。
つまり“ないもの”に目を向けすぎて、“あるもの”に目がいかないのだ。
わたしは今まで「ないもの(マイナスなこと)に目を向ける」ことしかやってこなかったので*1、自分が持っているプラスのものに目を向けるという作業が全くできない。
人よりは少ないかもしれないけど、こんなわたしにもちゃんと、虹色の日々や記憶たちはたしかに存在しているはずなのである。なのにわたしは、自らが作り上げた変な癖?のせいで、それらをすんなりと思い出すことができないのだ。
自分がうつ病になってすごく思うのだけど、物事の考え方や捉え方、そしてその人のクセみたいなものは、「変えよう、治そう」と思っても一朝一夕でなかなか変えられるものではない。
たとえば、一度紙をぐしゃぐしゃに折り曲げるとする。
そうすると、折り目はすぐに付くけれど、元に戻すにはかなりの時間がかかる。
というより、ほとんどの場合は元の状態に完璧に戻らない。
つまり、物事の考え方や癖が形成されるのはすごく簡単なのだけど、それを元の状態(フラットな状態)に戻すというのは非常に難しく、大変な作業なのだ。
だからまぁ、わたしが灰色の日しか思い出せないのも無理はないのだろうと思う。
しかし、もういい加減、灰色の日しか思い出せない人生とはこのへんでおさらばしたい。これから先の人生は、笑顔に満ち溢れた、虹色の毎日を送りたいし、それらの記憶をいつまでも大切に思い出せる人でいたい。
そのためにまずわたしがやらなければいけないことは、自分の物事に対する捉え方の癖を変えることなのだろうと思う。ぶっちゃけそのあたりのことは、今のうつ病克服にもリンクしてくるところがあるな、と思う。
1年後、3年後、いや10年後でもいい。
「記憶に残っている日を思い浮かべてください」と言われたとき、わたしは真っ先に、良い思い出・良い記憶を、、、虹色の日を、思い浮かべることができる人でいたい。
*1:たぶん、そうすることでしか生きられなかったのだと思う。