マスク装着率99.999%の人びと。
店のいたるところに置かれたアルコール消毒。
開けっ放しの扉や窓。
ソーシャルディスタンスを保つための地面の印。
飛沫防止のためのビニールシートやアクリル板。
金銭などを受け渡すためだけに用意されたトレー。
「コロナ予防対策」「マスク着用」「アルコール消毒」「離れて!」「三密避けて!」という張り紙。
テイクアウトが当たり前になった飲食店。
オンラインを用いた会議。学校の授業。そして飲み会。
つい1年ほど前、そしてつい半年ほど前には想像すらしていなかったような、、、そして、最初は抵抗しかなかったこれらの光景や生活様式。今ではこれらすべてが“当たり前のもの”になってしまった。
日本でコロナ患者が出始めてから半年以上が経つ。なんだかんだ言いながらも、わたしたちはかれこれもう半年以上もの間、コロナとともに生きているのだという事実に驚きを隠せない。そんなわけで今日は、昨今のコロナ騒動について個人的に思っていることをざっくりまとめる。
(大学院の修論準備に飽きました。)
◆「コロナ騒動は社会が変わるきっかけになる」説
春学期の大学院の授業はすべてオンラインになったわけだけど、そのオンライン授業でも、コロナ騒動のことは度々話題にあがった。その中でも個人的に一番「それな!」と思ったのが、受講者がわたし1人しかおらず、先生と雑談する(笑)みたいな感じの授業をしていた先生*1が言った言葉だ。
「コロナが起きてから、“コロナ以前の元の状態に戻そう”としてる人が多い。でも仮にコロナが落ち着いたとしても、またべつのウイルスが出てくる可能性もある。それだったら、それを前提に動いた方がいい。コロナによって働き方とか学び方とか、いろいろ変わるきっかけになったと思うし、まだまだそういう機会はたくさんあると思うから、正直(今回の騒動に)期待してるところもある。」
わたしもこの先生と全くの同意見である。
コロナ騒動を機にテレワークが増えたりオンライン授業が増えたりして、働き方や学び方が変化した。働き方や学び方が多様化するのはとても良いことだと思うし、そうやって少しずつでも、社会は多様性を認める方向に変わっていくべきだと思う。
わたしはここ数年間ずっと「いまの社会を変えたい、変えなきゃいけない」という謎の使命感を持って生きてきた(改めて考えてみると、その謎の使命感が大学院進学にもつながっているのかもしれない)。だから、いまのこの「社会を変えていかざるを得ない状況」というのは、わたしにとってはある意味“理想の形”だったりする。
コロナ騒動によって社会が大きく変わろうとしている今の状況は、「この社会を変えたい、変えなきゃいけない」とずっと思い続けてきたわたしにとってはある意味願ったり叶ったりな状況なので、「やっと社会がわたしに追いついた😊」とポツリ呟いたら、呑気にビール飲んでた父が急にむせました。
— ゆき (@duffyuki224) 2020年5月7日
なのでわたしは、この騒動をわりとポジティブに捉えている人だったりするし、大学の先生もそうであるように、意外とそう捉えている人は少なくないんじゃないかと思っている*2。
そうは言っても正直、この騒動で社会がどこまで変わるのか、そしてほんとに変わるのかどうかはわからない。でもこの騒動が、社会が変わるきっかけのひとつになればいいのになあ〜ということは、わりとずっと思ってる。
◆コロナと共存する
正直わたしは、コロナを「封じ込めよう」としてる人が未だにいることに驚きを隠せない。
だって、どう頑張ってもコロナがない世界線にはもう二度と戻れない。
わたしだってほんとは戻りたい。去年の年末とか、年明けすぐの頃に戻って、心置きなくいろんな場所に旅行に出かけたい。大学にももっとたくさん行っておきたいし、いろんな人に会いたい。
まあ遅かれ早かれ、いつかはまたそういうのを心置きなく楽しめるようになる日が来るのだろうとは思う。けど、仮にそうなったとしても、そこには必ずコロナがいる(なんて嫌な日本語なんだ!)。つまり、コロナウイルスがない世界には、もう誰も行けないのだ。
これはわたしは、この世界からいじめがなくならないのと一緒だと思っている。
人間が人間である限り、いじめを減らすことはできても、ゼロにすることは絶対にできない。たぶんコロナもそれと一緒で、人間が人間である限りは、感染者数を減らすことはできても、ゼロにすることは絶対にできないだろうなと思う。
そうなればやっぱり、インフルエンザとかほかの感染症と同じように、コロナと共存して生きていくことをもっと真剣に考えていかないといけないと思う。
たしかに今はまだ未知のことが多いし、ワクチンも薬もないからみんな慎重になるのはわかる。わたしだって怖いもんは怖いし、「コロナと共存していくべきだー!」とか言いながら、緊急事態宣言(手術)以降、一度も外食をしていない。でも、あんまりそればっかりに囚われて悲観的になるのも良くないと思っている。
ある日のオンライン授業で、とある先生がコロナについて書かれた新聞記事を紹介してくださった。それは東日本大震災を研究している研究者の人が書いたコラムだったのだけど、その人の言っていたことを要約するとこんな感じだった。
「震災そのもの(津波など)で亡くなった人数より、震災によって心身の不調をきたして亡くなった人数の方が多い。このままでは、コロナも同じようになるのではないか。直接的なリスクだけでなく、間接的なリスクにも目を向けるべきだ。」
その通りだな、と思う。このままではコロナ感染で死ぬ人より、コロナ騒動によって失業したり、心を病んだりして死んでしまう人の方が多くなりそうな気はする。というか、じつはわたしたちが知らないだけで、もうすでにそういう人の方が多かったりするのかもしれない。
いろんなことを自粛したり、感染しない、させないように気を張って生きることは悪いことではないし、大事なことだと思う。でも、そればかりだとやっぱりしんどい。どこかで踏ん切りをつけて「共存する」ことに少しずつシフトしていかないと、身体より先に心が死んでしまうと思う。
正直わたしは、コロナ関連のニュースにほとんど興味がない。どこで感染者が出ようが増えようが、わたしの日常生活は特に変わらないし、そんなの知ったところで自分に何かメリットがあるわけでもない。だから、偶然テレビやツイッターを見ていて流れてきた情報くらいしか知らない。
というより、わたしが専攻している社会学は基本的に「当たり前を疑う=データや数字をそのまま受け入れるのでなく、それがどういう要因によって生み出されるのかを考える」という学問なので、わりと普段からテレビやニュースの情報をそのまま鵜呑みにすることはしない。
だって、それらを気にしてあれこれ考えて「あ~どうしよう~~~また感染者増えてきた~~~やば〜〜〜」とか思って不安になる時間ほどもったいないものはないし、そんなしょうもないことに時間と労力を使っていられるほど、わたしは暇じゃない。
(笑)(笑)(笑)、、、え?
だからニュース速報とかで「今日の東京の感染者は〇〇人でした!過去最多です!」とかいうのが流れても、「ふーん。どうせまた検査数増やしたんやろ」くらいにしか思わない。まあせいぜい東京に住んでる大学の先生方や知り合いを心配するくらいである。
それでもやっぱり、自分の住む京都府の感染者が一気に増えるとゾッとするし、自分の近所で感染者が出ると、不安になることも多々ある。でも、こんなときだからこそ、なるべく社会学的な視点でコロナ騒動を考えることを忘れずにいたいと思っているし、いろんなことに一喜一憂しすぎないことを心がけている。
◆まとめ
この先どうなるかは誰にもわからない。
まあでもたぶん、どうもならないと思う。
とりあえずワクチンや薬ができたら人びとの心は今よりずっと楽になるだろうし、なんとなく社会全体もひとつの「終わり」みたいな空気感に包まれる(=落ち着く*3)んだろうなとは思う。
でも、仮にワクチンができてそれを打ったとしても、コロナになるときはなるだろうし、コロナにかかってそれに効くとされる薬を飲んでも、たぶん死ぬときは死ぬと思う。それはコロナだからどうとかじゃなく、インフルエンザだって実際はそんな感じだし、まあ所詮人間ってそんなもんだと思う。
この社会がどうなっていくかは知らないけど、コロナウイルス自体はこれからもずっとこの世界に生き続けるわけで、何度も言うように、コロナがない世界にはもう二度と戻れない。だから、それを踏まえた上で、今後どうしていくのか?ということを、社会的(マクロ)な視点からはもちろん、個人的(ミクロ)な視点からも考えて動いていくべきだと思っている。
そのうえで一番重要なのは「自分もコロナにかかる可能性がある(そしてかかれば自分だけじゃなく、周囲の人にも感染させてしまう恐れがある)から、十分に対策をして、感染しないよう気を付ける」ということだと思う。それだけは、今後感染者が増えても減っても、そしてワクチンや薬ができても変わらないと思う。
まあこれはほかの感染症や風邪とかにも言えることだと思うし、当たり前っちゃ当たり前のことなんだけど、そこの根底部分をしっかり理解して行動できる人が一人でも多くなれば、世界は今よりもっと明るくなるだろうとは思う。
止まない雨はない。
雨のあとには虹が出る。
ありきたりな言葉かもしれない。
でもわたしは、そう信じている。